『メアリーの総て』から色んな話になってしまいました


先日、サウジアラビアの女性監督ハイファ・アル=マンスールの『メアリーの総て』を見た。
書籍『フランケンシュタイン』を執筆した女性のお話。
透明感半端ない少女であるエル・ファニングが段々と変化してくさまに見ていて私の心にも炎が燃え上がるような感覚を覚えた。『秋津温泉』の岡田茉莉子をついつい思い出してしまいました。

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劇中に出てくる男性たちは、圧倒的に酷いものとして描いてて、この物語を描くうえでこの切り捨て方は重要なことだとは充分分かってるんですが少し気になってしまったのとすごい監督の念がこもっているなあ、と思いました。

そう、最近見たイーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクの家族の描き方もすごく気になりました。圧倒的に悪として描いていて、物語をすすめるためにつくられた人物でしかないような気がしてしまって。『ミリオン~』に関しては家族パートをもっと丁寧に描いたらもっと傑作になったと思ってます。
だからと言って、『メアリーの総て』に関しては、そこは圧倒的に描かないとメアリーの『フランケンシュタイン』を書くまでに至る部分に掛けるわけで、そこを求めるのは違うわ、と思いを巡らせて納得しました。

こんなこと言いながらほんとに大好きな作品なのです。

 

一瞬でもこうゆうことを思ってしまうのもなんか『ハッピーアワー』のせい(おかげ?)なんかもしれないです。

ちなみに『ハッピーアワー』も女から見てありえない!と思う男性の部分を割りと描いてるけど基本的に男性たちは悪気があったわけではなく自分なりに正義を貫いていたり苦しんだりしてるところまできっちり描いててそうゆうとこが好きなんです。もちろん尺も長いのもありますが、色んな方面から登場人物を捕らえられる。だから、正直誰が悪いとかじゃなく一番の理由はお互いのコミュニケーション不足なんだろうなあ、と思うしかなかった。
ある程度、付き合いがある人間同士は”私たちはこうゆう関係”って位置づけしてしまう気がする。そこからなかなか関係性を動かそうとしなくなることがよくあると思う。そこに現れる変化があるとすれば、崩壊なのだ。関係性を高めあう事は一定のラインを越してしまうとしなくなりがち。

しかもいったん駄目だ、と思ったらなかなかそのイメージを覆せないことも私の中ではよくある、良くないなーとは思うけどほぼ無意識で感じてるのだから人間って恐いなって思う。

みんながそうだ、みたいに書いたけど全部わたしのことなんです。

しかし、厄介なのは今の関係性で満足してる人と不満を持ってる人のズレを解消することは難しいだろうなと思う。実際に夫婦間、恋人間の中で多いのではないかな、と勝手に思っている。


昨日、ビデオで観たエリック・ロメールの『春のソナタ』は何だかそれを覆してくれるような作品でとても見ていて心地よかった。

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人と人との接触の描写が実に丁寧。あとスリリングでした。言葉で事件を起こしてちゃんと言葉で解決する。他人に対して勝手に描いてしまうイメージをあらゆる方面から見せてくれる。
とあるパーティで知り合った若い女性と哲学教師の大人の女性ふたりがお互い仲を深めていくのですが初対面の年齢が違う女性ふたりが距離を縮めていく様がこんなにも自然で魅力的に写ってることに感動してしまった。
それは少女の父や父の恋人が登場しても変わらずに保たれている。私たちが普段いつも日常でしている他人に対しての接し方も含まれつつ、時には言葉で相手を苦しめたり苦しんだりする。それは決して的確な言葉じゃなくてもいい。私はこうゆう風に人と関わっていきたいんだよな、と思いました。